日記:休日を独りで過ごしている人

あまりの暑さに目が覚め、自分が二度寝をしていたことに気付いた。目の前のテレビにはさっきまでにじいろジーンが付いていたと思うのだが気のせいだろうか。時計を見ると11:00を回っている。「やれやれ。僕は大きくため息をついた。」と心の中のリトル村上春樹が言った(言っていない)。また休日を無駄にしてしまう。

 

 

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何年かぶりに煙草を吸った。度々苛烈からの逃避や人との接点作りのために煙草を吸ってみてはいたものの、元々特に好きなわけでもないから長続きはしなかった。

最後のキスからタバコのflavorがするからといってタバコのflavorから最後のキスが想起されるわけでもないし、タバコの煙が染みると苦くて黒く染まると感じることもなかった。歌詞というのは必ずしも普遍的な事象が書かれているわけではないらしい。

 

貴重な休みの今日、家族で街に繰り出す人もいるし、溜めてしまった家事をせっせとこなす人もいる。今日という1日を有意義に使いたいという人たちを見ているとふと自分だけが異空間にいるかのような、言いようのない隔てりを感じる。自分の半径1メートル以内だけが異常なまでに静謐で、手が届くとこにいる他人もどこか異世界の、それも自分は決して立ち入ることの出来ない世界の住人に見えてしまうような。別にこの自分だけが取り残されているような感覚が辛くて悲嘆に暮れることもないし 、逆に自分だけが特殊であると嬉しくなることもないが、ただ真っ直ぐさと言うものは時として人を不安にさせる。

 

こういう時、漠然とした鬱念を感じた時に人は煙草を吸うのかな、という仮説とも言えない思いがふと頭をよぎる。こんなんで良いのかなという思いも苦味で丸ごと飲み込んでしまうのだろうか、などと考える。ただ一方で、僕は僕だという思いも頭をよぎる。如何なる名状し難い感情たちとも真摯に向き合い、一つ一つを片付けなければならない、などと考える。

 

 

酔いに任せて買い込んだせいで家にあった煙草は全てゴミ袋に放り込みました。僕も、今更だけど勉強道具と読みかけの本をリュックに詰め込み家を飛び出します。退屈な毎日が急に輝き出したし、走り出した脚は止まりそうにありません。

音楽:Need Your Light / Ra Ra Riot

早いもので2016年も半年が経とうとしている。正直なところ特別な感慨があるわけでもなく、定めた目標に向かって然るべき道程を進めているかの振り返りと目標の確認をする程度な僕だけど、一つこのタイミングに何か意味付けができるとしたら、iphoneに変えて1年が経ったということがある。

 

iphoneに変えた理由はただ一つで、Apple Musicをすぐにでも始めたかったからだ。つまり僕にとってiphone1周年はApple Music1周年くらいの感覚がある。

Apple Musicは誇張抜きに僕の人生を変えたと思う。元々音楽を聴くのは好きだったが興味がとんでもなく加速した。1年前の今日と今とでは知識量に歴然の差がある。今となっては昔から半年毎にやってきた聴いてきた音楽の総括も情報が多すぎてまとめるのに一苦労だ。

 

Need Your Light / Ra Ra Riot 

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そんな中でも最初に書きたいというか書かれるべきだと思ったのが彼らのこと。

ボーカル、ギター、ベース、ドラムというオーソドックスな編成にバイオリンがプラスされた5人組で、ジャンルはwikipedia的曰くバロックポップらしい。エレクトロとダンス感故かハウスロックと書かれているものも見たこたがある。まぁつまりオルタナってヤツなんだろう。

  

今作では、あの"リライト眼鏡"ことアジカンごっちも絶賛しており知っている人も少なくないのかもしれないが、僕が最初に彼らを知ったのはBoyという曲である。

 

https://youtu.be/NKGfQCOyCCA

 

出会いは本当に衝撃で、放っておけば3連休誰とも話さず口を開かないなんてこともザラなサブカルクソ陰キャこと僕が声帯を全開にして'Foooooooooo'と叫んでしまうほどであった。ここ最近で1人でそんな叫び声をあげるヤツなんてドラマ"僕のヤバい妻"の伊藤英明くらいしか見たことがない。伊藤英明か豊田くんかってもんだ。不思議で洒落たベース。バンド演奏を喰わない、それでいて存在感は絶妙に際立つバイオリン。そのまま曲の広さを作るさながら吹き抜けのような透明な高音ボーカル。US音楽らしいall happy感覚。すごくない?すごくない。そう(憤怒)。

 

現在時点でmy再生回数1位になるほど聴き込んでいる曲を描いたバンドの新作を僕が楽しみに待たないことがあろうか(反語)。ということで心を落ち着かせるために大好きな耳かきで痛いと痛気持ち良いの境界ギリギリを探るなどして待っていた新譜も、一聴して流石の一言であった。

というわけでようやく新譜の感想である。

 

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Ra Ra Riotの「Need Your Light」を @AppleMusic で聴こう。
https://itun.es/jp/S0zk_

 

ボンヤリとした表現だが、まず第一に水中から地上を見たときの感情を音楽化したような楽曲たちだと思った。深淵とはまた違う、明るさを伴う広がりが感じられる。光の夢幻、といったところである(反対の闇の夢幻については後々言及したい)。アルバム名と、一曲目のタイトル(Water)がバイアスになっているのかもしれないが、とはいえ彼らもそんなイメージでこのアルバム作ったのではと思わされる。

 

アルバムとしての具体的な良さを述べていくと、曲毎の主役が違う中でアルバムとして一つの纏まりになっているところに洗練を感じる。そしてそれがたまらなく美しい。

1〜3曲目にかけて順調に上っていくBPMと、特に2曲目のハウス×エレクトロポップ感は上品で心地よい高揚感をもたらす。また3曲目のForeign Loversは曲の中でベース、バイオリン、シンセ各々が主役になりそれでいて一体ともなっており彼らの音楽的懐の深さを痛感させる。

そのまま流れ込むNeed your lightでは今度はドラムがクールな煌きを放つし、Call Me Outはバロックらしいバイオリンと突き抜ける高音が壮大だ。

ドラムの3連に支えられてさらに壮大な世界観を創るInstant breakupは、マジInstant breakupとかやめてよずっと一緒にいるって約束したじゃん、って感じだし、次曲のEverytime I'm ready to hugにはそうだよねあんなこたしといと別れるだなんて許せないからって気持ちになる。なのにアルバムはもう終盤とか超ウケんね。そうやって結局期待だけさせて私の下を離れていくのねあなた。

 

情緒不安定だから文体がおかしくなってしまった。まぁでもこれだけの起伏がありながらクドくない、満足満腹だけど気持ち悪くはならない楽曲群のその多様性には本当に衝撃で。僕自身は音楽的優劣の共通基準の一つに多様性を掲げているんだけど、Ra Ra Riotのそれはなんというか"本当にちょうど良い"。そして一見多様性とは矛盾するけれども、一貫性による裏打ちが存在するところもバンドとしての力量を感じずにはいられない。

 

邦楽で〇〇が好きな人は是非、などと言った紹介が出来れば多くの人にとってよりとっつき易くよりバリュアブルだし、何より邦楽大好きマンの僕が書く必然性も出てくるんだけど、彼らのこのアルバムを邦楽の誰かと関連付けるのは少し難しい。日本ではありそうでないジャンルなように思う。似たものを感じる人がいたら是非教えて欲しいところである。

青空美しい晴天の午後、芝生の上なんかで聴くも良し。行きつけの純喫茶で冷たいコーシーを嗜みながら聴くも良し。落ち着きあり時間の流れが早すぎないポジティブ空間に1番合ってそうなアルバムだと思うので、自分がそんなシチュエーションに遭遇していたら、その時は是非。

与太話:好き嫌いが無くなる話

僕はそんなに食べ物の好き嫌いがなくて、そうは言っても柿だけはどうしても好きになれないのだが、柿なんて店で当たり前に出てくることもないだろうから、一応好き嫌い無しを公言している。

 

好き嫌いが無いというのは精神衛生上とても良い。

まず第一に外食において困ることが無い。「なんかダメなもんとかある?」と聞かれても「いえ、特に無いですよ、何でもいけます!」と言える。

次に食の場面での幸福指数が高い。好きなものを食べるということは僕たちホモサピエンスにとって無常の悦びだ。無常の悦びを何の障害もなく味わい続けられる。

さらに自分が好き嫌いが無いという事実が自己肯定感をとても高める。僕たちはまだ右と左しか分からないくらいの赤ん坊の頃から、好き嫌い無く残さず食べることは正しく善い行いだと教えられ育っている。そうプログラムされているもんだから、もう良い歳になったら好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いで良いと思うんだけど、やはり好き嫌いが無いというと自分が社会的に優秀な良い子のような気分になる。

 

馬鹿みたいな文章をここまで嬉々として書いてきたけど、僕は高校入学くらいまで好き嫌いがとても多かった。帰宅したらいの一番に晩御飯のメニューを聞き、それにふんだんに野菜が盛り込まれていると分かりやすくガッカリする、という漫画から出てきたようなガキであった。(今思うとガッカリするのはどう考えてもこんな阿呆な中学生を持った母の方である。)

 

そんな僕が高校入学後に途端に野菜と魚が好きになる。多分ターニングポイントは、程よく色気付いてる友人が野菜や魚を本当に好んでいて、晩御飯のメニューにそれらがふんだんに盛り込まれていると喜ぶ、というタイプだと知ったことだ。

僕たちには何故か克明に覚えている情景というものがある。スゴく重大なことや神経が研ぎ澄まされていた時なんかはそうだろうし、何故かどうでも良いことを覚えていることもあるだろう。この時もまさにそれだった。

教室の隅で僕と友人2人で昼食をとっていると、寮の友人が支給された麻婆茄子の弁当(呆れるほどに不味い)を食べていた。その友人は「茄子はうまいけどこの麻婆茄子だけはマジで無理だ」話しており、野菜嫌い典型マンの僕は「そもそも茄子自体がそんなに好きじゃない」と返した。すると別の友人が「茄子はこんなに美味いのに好きじゃないなんてあり得ない」と驚嘆していた。帰宅してその話題を母に話すと後日茄子の料理が出たが、僕は(母曰く)嬉々として食べていた。

納豆好きが納豆嫌いに対してそうするように、湘南乃風好きが湘南乃風無関心層にそうするように、単に好きでないことに対して魅力を分かっていないと悲哀の眼差しや侮蔑の言葉を投げかけるというのが心底嫌いだった僕だが、不思議とその時悪感情は全くなかった。万物は常に複合的に成立するものであるからその理由を簡単に論じることは出来ないが、野菜と魚を好き嫌いなくなんなら好んで食べられることに対して僕が少なからず憧憬を抱いていたことは間違いない。

 

あれからアオハルと言われる期間も終わり10年近くが経とうとしているが、僕の好き嫌いは、炭酸の泡沫がそうであるようにいつの間にか跡形もなく消え去っている。僕たちがパーソナルな部分を伝えるために用いる物事の好悪なんてのは所詮そんなものなのかもしれない。よく分からない理由に蓋されたそれらは何かをキッカケに最も簡単に取り除かれていくものなんじゃないかなと思える。

たとえば茄子は油がとても合う野菜だ。柿だって茄子と油のように圧倒的親和性を持つ何かがあれば評価を変えてやれるのに云々。

音楽:メロディーズ / 蓮沼執太

今年度になって体調を崩しやすくなった。まぁ元々身体が強いわけではないし環境の変化もあるけれど、動く元気が無くなるのはストレスフルだ。

 

メロディーズ / 蓮沼執太  

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https://youtu.be/oe38J6fkhgU

https://itun.es/jp/FZd__

 

蓮沼執太というアーティストを今年の初めに知ったんだけど、まぁ良い。彼自身のオープンな感性と十分な知識故なのか実に多様で奥行きのある音楽をするな、という印象。

 

 で、新作のメロディーズなんだけど、圧倒的なポップセンスとメロディーセンスとが煌いている。眩しい。

元々学んできたことがエレクトロニカとかの人で実際に過去のアルバムはそっちの系統に傾倒してた(超おもしろギャグ)感があるんだけど、前作でフィルを結成たことが今作のような方向性に進む端緒となったみたい。

 

先述のポップセンスとメロディーセンスとの良さはまぁ勿論として、個人的に蓮沼執太と彼の今作が良いなと思うのは無駄がないところ。

彼自身の声質、コーラスも含めた声のハーモニー、リズム感、言葉の感覚、演奏に使われる楽器、時代と曲調のマッチング、全てが高いレベルでの必然性を保っているように思う。

 

特に(一昨年)昨年くらいから電子世界に音楽評論を放流するタイプの音楽ヲタクあたりがシティポップバンド/グループたちを拾っているけど、彼らは実質的に音楽市場のアーリーアダプターであるし事務所のプッシュが上手くあればもっと世に出ると思っている。そこまでバズらなかったけどceroもスマスマに出ていたし、suchmosは順調にステージを上っていってるなと思う。

この傾向が続くなら音楽の洗練と評価に正の相関が生まれる気がするしその時に蓮沼執太が活躍していたらサイコーだな。

 

上半期ってことだし他に書くこともないしボチボチ気になる音楽のこととかを書こうと思う。

日記:昨日のこと

すごくどうでも良いことなんだけど、乃木坂の新譜のジャケット

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これ皆が微笑んでいるの意外じゃない?乃木坂のイメージ的にもジャケットのビジュアルの方向性的にも無表情だと思ってた。何笑っとんじゃ喧嘩売っとんかわれ。
 
 
ところでイッセイミヤケ展に行ってきた。
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元々人並み程度には美術館などに行くのだけど最近「美しさとは何でそれに対する感覚を人はいかにして養うのか」という疑問と「美しさに対してセンシティブでありたい」という感情とがあり、そのため近くで開催されていた雑貨展と迷ってより前衛的な方を選んだ。こう書くと論理が飛躍している感じがすごいが、その時は確かに実に理に適った考え方であると思っていた。
 
 
 
朝一番で展示場に入る。
 
写真はない。
 
 
 
 
 
1時間程度の回覧を終えた。結果として、僕はまだまだ美しさに対してセンシティブではないことがよく分かった。デザインの良し悪しみたいなものはよく分からず、自分のこれまでのストックにないアウトプットを前に終 心地よいぼんやり感を抱くに終始していた。一方で、多くのオシャレなお客さんは僕と違って彼ら彼女らの高感度なアンテナは刺激されているのかな、と思うと一抹の寂寞感みたいなものが募った。
 
ただ、様式は機能に準ずるし機能は目的意志に準ずる、という気付きもあったし単純に圧倒もされたし値段分は味わえたかなといったところである。
 
 
そのあとはBBQに行って、余ったエリンギを押し付けられた。
 
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エリンギは冷蔵保存だという気付きもあったし単純に空腹を満たしたし値段分は味わえたかなといったところである。