雑記:SWに観たり聴いたりしたモノについて①

なんてことはない備忘録のようなモノ。

SWに聴いたアルバムのうちの一部の感想。

 

・Random Access Memories / DaftPunk

2013年グラミー賞受賞作を今更初鑑賞した。

心地よい生演奏で奏でられるテクノたちと日本音楽とを比較すると、時系列的にも品質的にもこの音楽がはるか先をいっているなと再認識させられた。

最小限の情報量で奏でられる音楽は、楽曲としての多様性も申し分なく、横ノリできるダンス感がたまらない。しかしその一方でどこかに寂寥感がある。

現代的でありながら異なる時代の音楽に触れるこの感覚は、まさに現代版ジュークボックスでもあるパソコンから楽曲にランダムにアクセスし音楽の幅を広げるという、物理的に閉ざされながら電子的に開かれた世界を実感できるこの21世紀を表しており、アルバム名もメタファーなのかと思わせられる。何もかもが上質な一枚。

 

・23区 / bonobos

有体な言い回しだけど、現代的でpopな楽曲が煌くボノボ。ブラックミュージック感があるネオシティポップというのはサブカル音楽好き界隈の中で隆盛しているが、これもその一つといえる。

特筆すべきはそれをバンドが本当に上手く消化しているところ。なるほどボノボのシティポップはこうなるなと思わず膝を打てる一枚。もう一年早く発売していたら失禁ものだった。

 

・Lady Miss Warp / 野宮真貴

リオパラリンピックの閉会式に感化されて手に取ったアルバム。一応軽く聴いたことはあったが改めて聴くと音楽の変遷に思いを馳せたくなるような一枚であった。

個人的には渋谷系の特徴は"憎たらしいほどのコジャレっぷり"にあると思っているんだが、野宮真貴は声とマイナー調の相性の良さもあって、渋谷系の特徴に加え"円熟味のある妖艶さ"が特に際立っているように思う。大学生が一丁前に夜の街に飛び込んだ時にまだ早いとあしらってきそうな、そんなうつけモノには手の届かないような存在感がある。

ただ一方でそれは21世紀の私たちからみれば昭和のイメージに似たものであり、それがバイアスとなってこの音楽にも作用しているように思う。野宮真貴という個性は一時代の象徴として、また世紀末のレガシーとして、今という新しい時代の顕現を僕たちに報せてくれるのだ。

 

・Dear Future Husband / Meghan Trainor

DaftPunkの影響でグラミー賞に興味を持って聴いたアルバム。偏見がすごいんだけど、二曲目のAll About That Bassの服屋で流れてそう感が苦手でしっかり聴けなかった。でも言われてみればDear Future Husbandは未来のダーリンに捧げている感はある。僕にとって音楽とは複雑怪奇で、僕はまだその深淵の表面をなぞっただけにすぎないなと思わされた。いいタイミングでいいモノを聴いた。

 

・Home before the dark / Kid Astray

出会い系でやり取りをしていた女の子に教えてもらったバンド。シンセが奏でる極上のポップは色彩美しい世界を映すかのような鮮やかさ。同じシンセポップでもCHRVCHESよりも陽の印象が強いが、これはノルウェーで苦しみながらも生き抜いてきたであろう希望のポップとでも言えるのではなかろうか(因みに苦しみ絶望し、それでも死ななかった人はメタラーである。完全な偏見)。

 

 

例えばブロックチェーンが云々だとか、新時代に即した発展のニュースを見ていると、知性的な意味で豊かに生きないと搾取被搾取云々以前に死んでしまうのではないか(人間が化石になることはないので社会の流れについていけなくなった時に最後に待つのは死だ)と不安になることが多くて

そう考えると、全てで平均前後を抑えること、そのために頭を使って段階を踏んだ自問思考が出来る強度を身につけること、そして何かしらでスペシャルになることが必要なんだなと意識の高い考えが頭を支配してしまう。

そんな時に芸術に触れると、単純にどこか自分の階級が上がったような愉悦感に浸れることは勿論、こういうことがもしかしたら自分を生かすんじゃないかみたいな未来的全能感に包まれる。そして愉悦に浸る。

崇高な志など犬に食わせて、僕は僕が気持ちよくなるために趣味を楽しむぞと思ったが、文字数が半端だからと駄文を連ねる自分には辟易して、自己嫌悪を引きずり1週間に備えるのでした、おしまい。

 

暇を見つけてSW中に見た映画や本については も書きま〜す。STAP細胞はありま〜す。