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雑記:1-4月に見たり聴いたりしたモノの一部の話(映画編)

完璧なブログ更新などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね。

f:id:Toyoda9a:20170513144811j:image(画像は拾い物です)

すたあばつくすの風吹くテラスでさわやかにブログを書き始めてはいるが、なんとこのブログ、年度どころか年が明けて以降初の更新ということになる。この間僕が何をしていたかというと、僕の大好きな番組「劇的ビフォーアフター」も終わりまた一つ成長の"おぽちゅにてぃ''が創出されたにもかかわらず、虚無を積み重ねてしまっただけである。まさになんということでしょう、といったところである。こうして我々の心身は緩やかに朽ち、死に向かっていくのであろう(シ~ン)。

ところで4月はなんと全くブログを更新していないというのに月間PV数が100を超えていたとのことで、こうなってくるともうありがたいを通り越して恐縮である。万が一複数回チェックしていた方がいましたら本当にすいませんでした。それもこれも阪神の守備がボロボロすぎるのが原因であるから文句あがもしあれば甲子園と鳴尾浜に訴えてほしいところですが、善良なる賢者なのでいかなる叱責も甘受する次第であります。

  

・お嬢さん / パクチャヌク

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オールドボーイの監督パクチャヌクの最新作。商業としての映画の成熟過程にある韓国映画らしく最後はきれいにまとまっているのだが、何よりも作り込まれ具合に感心する。

以前どこかで「深い映画でなければ名作とは言えない(故に如何に売れようが君の名は。は名作とは言えない)」といった話を見かけたが、僕はこの言説は如何なものかと考えている。文化芸術というのは娯楽性と芸術性の2つの性質を持っていると考えており、その深くない映画とやらは娯楽性という意味で練られているだけの話であるから、というのがその理由だ。それに、娯楽性と芸術性は両立し得るものであろう。美しく御都合主義の感がある話も、その演出や演技という意味で実に細やかである、なんてことは何らおかしな話ではないはずなのである。

ところで最近、漫画「推しが武道館行ってくれたら死ぬ」とか女性同士の愛なり恋なりの作品に触れる機会が増えているが、予想以上になんてことはない。世界には今日も美しい人が沢山いるが、一方で家具が少なく空間を持て余している僕の家には今日も誰も待ってなどいないのである。(完)

 

・ムーンライト / バリージェンキンス

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前哨戦と言われる各映画賞の結果も見ずにララランドを激プッシュしていた日本の広告代理店様や国内映画配給会社を困らせたアカデミー賞作品賞受賞作。まぁムーンライトは国内受けしさなそうだし分からなくはないが、配給会社の事情やキャロルの存在、昨今の国際事情を鑑みたら自明なのであって…。

といった具合に、事象に蠢く物事を俯瞰して見れますとでも言わんばかりのメタ野郎や社会知識マウントおちんぽマンみたいなコメントはいらなくて、シンプルに一言「終わる前に見に行ってみるといいよ」といいたい。なので今回は何故ムーンライトを見に行くといいかをムーンライトという映画に触れる意義という観点で書いてみたい(見たものの話ではないが)

我々というのは常に平衡状態からの逸脱を恐れている。特別なこと、予想外なことが起きたとしてもそれが最終的に(予想外のままだとしても)おさまりのいい形に収束することを求めている。勧善懲悪な時代劇、努力や苦悩の末の涙煌く熱闘甲子園などを思い出せば自明であろう。

このことから、我々は物事の理解の上で経験に即した「型」を用いているということができる。こういうものだ、という理解のオリジナルメソッド的なものを頭にストックしていくのだ(このストック量やストックの応用力が所謂頭の良さを定義する主たる要素だと思っているが、それはまた別の機会に)。

それでいうと、ムーンライトという映画は、映画ヲタクでもない日本人のこの型からは少しは外れているものであるな、と私は思う。それはLGBTを扱っていること、構成の変化時等に用いられる色彩の意味(これはキャロルを見ている)…挙げればきりがないしそれを挙げすぎることはネタバレにもつながるが、まぁなんというか有体な表現を使えば、初めての経験であると思う。

映画に何を求めるかというのは各人次第であるはずだが、実際そうであるべきなので、そう考えるとシンプルな娯楽として映画を楽しむのであればあまり合う作品ではないし見ることもないのかなと思う。ただし、自分が豊かになれる可能性がある作品ではあるので、それを望むなら見た方がいいと思うし、もし名作の定義に深みを掲げるならこれを見ないなんて嘘だと言うほどの名作であり、名作と言わずになんというのかとも思える。

食べ物で例えるなら、カメルーンの郷土料理ンドレ。

 

・クーリンチェ少年殺人事件 / エドワードヤン

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映画界の多くの著名人に影響を与えたという4時間に及ぶ超大作がデジタルリマスター版でよみがえった!らしいが、4時間は流石に長い。間違いなく僕自身の人生ベスト10に入るレベルで良作だったが、4時間は途中でだれていた。ハッピーアワーとかもそうだが、こうした作品を終始没入して鑑賞できる人が真の映画好きなのかなと思える。4時間というとNovember Rainでも26曲分なわけで、そう考えるととんでもない長さだ

正直なところ、内容を完全に理解はしていないと思う。この自分の理解度すら曖昧な感じは、勉強をしていて「どこが分かっていないか分かっていない」という状態と同じだ。あの感じ。何となく青チャートを読んでいて、最後まで見ても言っていることは分かるが、それ以上は何もなく当然テストなどしても解けるようで解けないあの感じ。おぉ懐かしい。こういう時は大体立ち止まりながら自分で説明できるように読み進めるといいはずだから、クーリンチェも途中で止めながら声に出して振り返るという手法でまた鑑賞すればよいのか(それは難しいことである気がする)。

青チャートといえば、ミニシアターに映画を鑑賞しにいくとたまに1人で来ている高校生に出会うことがあるが、彼らは何故ここにやってきたのだろう。僕が高校生の頃といえば、服を買うのは私服に関心のない僕を見かねた親の買い物のついでのときだけ、それもお金も親に出してもらって選ぶ、という思春期ボーイとは思えない物であった。

そう、思えばあの頃は勉強というミッションの成果で学校という社会の階層が決まると思っていたのか、脇目も振らずにそれに取り組んでいただけだった。彼女が出来るとか、祭りに行くだとかそういうのは愚かしい人間の所業だと自分に思い込ませていた。その実、そうした世間のような何かのイニシエーションに憧れていただけにも関わらず。彼女(というのも今となっては間違ってすらいる気がする)が出来ても特に相手に関心もなく、いや関心は少しくあったかもしれないが、その関心にも無意識のうちに蓋をして毎日を過ごしていた。記号を手にすれば自分もイニシエーションを通過できるとでも思っていたのだろう。

僕の、等身大以上の激情は、蓋をされたことで腐敗してしまっていたようである。取り敢えず、それらに風を通すために、今日も映画館に行くのである。

 

・そうして私たちはプールに金魚を、 / 長久允

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渋谷という街が嫌いだ。自分が斜に構え続けてきたが故に燃やすこともできなかった、若者特融の年齢と身体以上の激烈なエナジーが溢れだしているこの渋谷が嫌いだ。何故か悲しみ漂う東横線のそばの工事現場にそびえ立つ巨大クレーンが目立つ渋谷が嫌いだ。人混みや喧噪に目もくれずスクランブル交差点をフライングして渡る人たちにとって無機物でしかない渋谷が嫌いだ。

なんて書いて文学人を気取る自己欺瞞はもう卒業しなければならない。実際のところは人が多くて疲れるから嫌いなだけだ。一両編成の電車が来る、早くても20分に一本しか電車が来ない田舎に住んでいた僕には異世界なのだ。恵比寿にいるだけで偏頭痛に襲われる僕のレベルを超えているのだ。

しかし、男には渋谷にいかねばらならない時がある。そう、見たい映画が渋谷でしか上映していない時だ。終業後、家とは逆方向の電車に乗り、渋谷に着く。偉そうなことを言っても僕だって東京都民、住民票は東京都だし東京に来たばかりの人に中野の飲み屋をお勧めするようなしちーぼーい検定5級の人間だ。映画が始まるまで映画館傍のコじゃれた飲み屋でビールでも楽しむか。そういって僕はユーロスペースという見たい作品が上映される映画館に向かった。

どうやらユーロスペースの前はラブホテル街らしい。レンガの道はお洒落だが確かに道行く女性はキッチュな風貌で、男性はどこか浮かれているように思う。まぁこういうものをスルーしてなんとなく歩いているうちに僕らはなんとなく大人になるんだろう。行こうかなと思った居酒屋には僕と同い年くらいの男が入っていってる。成程、こいつは誰よりもそそくさと食事を平らげそそくさと帰っていくのだろう。

などと思っていると、居酒屋から泥酔したルイヴィトンが好きそうな女性と髪の毛はツーブロックウェリントンの眼鏡をかけたサラリーマンが肩を組んで出てきた。絶対男の方の休日の趣味はフットサルかサーフィンかクラブのどれかだし仕事は不動産か商社か広告代理店だろう。因みに僕の休日の趣味は昼寝かツイッターか夜更かしのどれかだな、なんて考えていると二人は正面にあったラブホへと向かっていった。いや、正確に言うと男が女を向かわせていった。男と女のララバイゲームが始まっている。女は入口の壁にしがみついて拒否していたが最終的にはドアの向こうのワールドへと姿を消していった。やれやれ。僕は射精した。

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結局映画開始ぎりぎりまでは少しはなれたドトールで時間をつぶし、映画館には恐らく業界関係者であろ方々の間隙をぬって入り込み、長いのか短いのかよくわからない30分という上映時間をこっそりと片隅で満喫した。映画は楽しかった。僕が燃やせなかった激烈なエナジーがそこにあった。それを発揮することもできない僕は銀杏BOYZが好きな先輩にとりあえず映画をお勧めするラインを送った。

サブカルの溜まった落とし穴に紛れてしまった何物でもない雑魚こと僕は何故かどっと疲れて家路についたのであった。

(そういう内容ではありません)

  

・人生タクシー / ジャファルパナヒ

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これと出会えたからこそ、久しぶりにブログを更新しようと積極的に思えた、心のベストテン作品。カルチャーの上澄みを掬って所謂頭でっかちになっていた自分の白晢で尊大な横顔を骨格ごと破壊せんばかりの勢いで、この人生タクシーという映画が突っ込んできて''ぼく''を轢死してきた。僕は射精した。

映画は「映画撮影(編集など含む)を禁止されたイランの映画監督ジャファルパナヒの最新作」という、僕の文章がお粗末であることを差し引けば、この一文を読んだだけで矛盾と奇作の可能性を感じる面白(interesting)い触れ込みのもの。

イランでタクシー運転手に扮したパナヒが運転する車に乗り込んでくるバックボーンもキャラクターも多様な乗客たち。80分間映され続けるその光景に見るのは、イランという国とそこで起きているかもしれない盈虚、垣間見える人の性、パナヒ自身の葛藤とアウトプット、はたまた関わる人間の魂…一言でまとめるとあまりに陳腐になるが、そこにあるのはまさに''人生''である。

経験知原理主義とでもいうのか、みたらわかる・やってみたらわかる…などといった言説のことを心底嫌悪しているのだが、こればっかりは見たらわかるというほかない。というか見ないとわからないか? これは映画なのか、これこそが映画なのか…浅薄な知見をひっくり返してくれる今作を見ないのは、嘘であると心からそう思う。僕自身もまた映画というものについて考え直したい。

あ、あと最初の5分くらいは完全に無駄。

何かにたとえようと思ったけど、適切なものがなく断念。

 

・PARKS / 瀬田なつき

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トクマルシューゴマジ半端ないの作品。朝ドラで花型の役を演じながらそれ以降癖の強い作品で癖の強い役をこなしてサブカルどぶ人間たちの心をつかんでいる(と僕は勝手に思っている)橋本愛と、一時期激プッシュされていた気はするが最近は露出も落ち着いている染谷翔太(個人的には才能が不要に摩耗してほしくないのでこれでいいのではと思っている、聞こえてるか菅田将暉池松壮亮の関係者)はさすがだし、吉祥寺の風景は間違いなさすらあるんだけど、とにかく音楽がすごい。

蓋し、映画というものは、①演出(カメラワーク/映像/音楽等)、②脚本、③演技、④ストーリーの4要素が特に重要であり、この要素が数字順の優先順位で映画の出来を決めることが多いと思っている。それでいうと、今作は①があまりに圧倒的、もっと正確に言うと①のうち音楽が圧倒的な作品である。それゆえに脚本やストーリーという意味では特に轢かれるポイントも薄く(寧ろひっかかる部分が多い)、演技も心を揺らされるという曖昧にして確かな感覚に浸れるほどではない(勿論素晴らしいものではあったが)、にもかかわらず読後感(鑑後感?)は良い。

定期的に高円寺や中崎町で古着のウィンドウショッピングをして高まるタイプのクソ人間なのでスカート澤部、シャムキャッツ相対性理論とかが耳に入るところもまた憎たらしい。そうしたものを摂取すると何か高感度な人間になれてるように錯覚し高まっている自分も憎たらしい。最高で最低だ。

あ、食べ物でたとえるなら、とれたての九条ネギがたっぷり盛られた京都ラーメン。

 

文化芸術の、我々の経験のストックを超えた激烈さや繊細さに出会ったとき、我々は一つ豊かになれているかのような気がするが、この感覚は我々をハイにするという意味で脳内麻薬みたいなものなのではと思える。そしてそれがあるから、我々はなけなしのお金と、稗田八宝菜のように重たくなった頭と、現実からの逃避精神とをもって今日も不適合者のたまり場へと赴くのである(生)