与太話:好き嫌いが無くなる話

僕はそんなに食べ物の好き嫌いがなくて、そうは言っても柿だけはどうしても好きになれないのだが、柿なんて店で当たり前に出てくることもないだろうから、一応好き嫌い無しを公言している。

 

好き嫌いが無いというのは精神衛生上とても良い。

まず第一に外食において困ることが無い。「なんかダメなもんとかある?」と聞かれても「いえ、特に無いですよ、何でもいけます!」と言える。

次に食の場面での幸福指数が高い。好きなものを食べるということは僕たちホモサピエンスにとって無常の悦びだ。無常の悦びを何の障害もなく味わい続けられる。

さらに自分が好き嫌いが無いという事実が自己肯定感をとても高める。僕たちはまだ右と左しか分からないくらいの赤ん坊の頃から、好き嫌い無く残さず食べることは正しく善い行いだと教えられ育っている。そうプログラムされているもんだから、もう良い歳になったら好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いで良いと思うんだけど、やはり好き嫌いが無いというと自分が社会的に優秀な良い子のような気分になる。

 

馬鹿みたいな文章をここまで嬉々として書いてきたけど、僕は高校入学くらいまで好き嫌いがとても多かった。帰宅したらいの一番に晩御飯のメニューを聞き、それにふんだんに野菜が盛り込まれていると分かりやすくガッカリする、という漫画から出てきたようなガキであった。(今思うとガッカリするのはどう考えてもこんな阿呆な中学生を持った母の方である。)

 

そんな僕が高校入学後に途端に野菜と魚が好きになる。多分ターニングポイントは、程よく色気付いてる友人が野菜や魚を本当に好んでいて、晩御飯のメニューにそれらがふんだんに盛り込まれていると喜ぶ、というタイプだと知ったことだ。

僕たちには何故か克明に覚えている情景というものがある。スゴく重大なことや神経が研ぎ澄まされていた時なんかはそうだろうし、何故かどうでも良いことを覚えていることもあるだろう。この時もまさにそれだった。

教室の隅で僕と友人2人で昼食をとっていると、寮の友人が支給された麻婆茄子の弁当(呆れるほどに不味い)を食べていた。その友人は「茄子はうまいけどこの麻婆茄子だけはマジで無理だ」話しており、野菜嫌い典型マンの僕は「そもそも茄子自体がそんなに好きじゃない」と返した。すると別の友人が「茄子はこんなに美味いのに好きじゃないなんてあり得ない」と驚嘆していた。帰宅してその話題を母に話すと後日茄子の料理が出たが、僕は(母曰く)嬉々として食べていた。

納豆好きが納豆嫌いに対してそうするように、湘南乃風好きが湘南乃風無関心層にそうするように、単に好きでないことに対して魅力を分かっていないと悲哀の眼差しや侮蔑の言葉を投げかけるというのが心底嫌いだった僕だが、不思議とその時悪感情は全くなかった。万物は常に複合的に成立するものであるからその理由を簡単に論じることは出来ないが、野菜と魚を好き嫌いなくなんなら好んで食べられることに対して僕が少なからず憧憬を抱いていたことは間違いない。

 

あれからアオハルと言われる期間も終わり10年近くが経とうとしているが、僕の好き嫌いは、炭酸の泡沫がそうであるようにいつの間にか跡形もなく消え去っている。僕たちがパーソナルな部分を伝えるために用いる物事の好悪なんてのは所詮そんなものなのかもしれない。よく分からない理由に蓋されたそれらは何かをキッカケに最も簡単に取り除かれていくものなんじゃないかなと思える。

たとえば茄子は油がとても合う野菜だ。柿だって茄子と油のように圧倒的親和性を持つ何かがあれば評価を変えてやれるのに云々。