与太話:自己超克とは関係のない話

僕は、教育とは「社会人というレプリカントを製造する政治的行為」であり、優秀なレプリカントたち(これは皮肉でも何でもない最大級の賛辞だ)は、大きな基礎ルートで勝ち取った学歴と、個別学問分野という細分化されたルートで修めた学問を活かして、社会の主たる担い手として生きゆくものだと考えている。イメージしやすいルートの分岐点は、大学入試や新卒就活就職(勿論国家試験や学者を目指すこともここに含まれる)あたりだろう。

大きな基礎ルートも細分化されたルートも、お題は頭の良さ(便宜上の表現)である。これは通る人が多い分だけ勝ち残るのが難しい。高校で優秀だった人が大学では凡人レベルだった、というように、研究・ビジネス・医者などの専門職?でもなんでも、当然上には上がいる。それを知った人はヨソに自己を見出す。音楽や映画に精通すること、食の道を極めようとすること、人脈を広げることなどがその例だ。家族の幸せなどもそこに含まれるだろう。

そしてベンチャーの世界で生きることもその例の一つだと思っていた。頭脳ルートで勝てないと判断した人が逃避として選択するルートだと思っていた。それを生きがいだとかやりたい仕事だとか美辞麗句を並べて自己欺瞞かよ、と思っていた。当該の人は反駁としてご立派なロジックを並べるだろうが、優秀なレプリカントでないという事実は揺るぎないと思っていた。これに関しては思っていると言った方が正しい‬。あなたは自分の価値観と夢のために軋轢に苦しみながら生きている人を「自分を殺している」などと知った風な口で批判してるだけで、あなたこそ自分にとって居心地の良い、ともすれば都合のいいルートに逃げてるだけなんじゃないですか?と思っている。話は逸れるが、だから僕は新卒就活でベンチャー企業に行く奴が大嫌いだし、見下している。自分もその1人であることを棚に上げて、見下している。このルートは難易度的にもこれからが本番だというのに、そこに挑む前に白旗をあげてるだけではないかと、負け犬だと、見下している。

 

ただ、最近になって例外があるかもしれないと思い始めた。ITで起業し、自分を自力で養えている人間だ。勿論大手企業がもう安泰ではないだとか、ビジネス世界の変化の速度が凄まじいだとか、大学3年生が夏秋に練習と経験のために行く、for the ベンチャーof the ベンチャー by the ベンチャーの胡散臭いセミナーで言われそうな話も理由としてあげられるだろう。従来のルートにおける優秀なレプリカントというゴールとそのメルクマールの定義が近年大きく揺らいでいるのは、そういった価値観が嫌いな僕でも漠然とまぁそうなのかなとは思う。ただしここでは、これが何故例外かというと、先に述べたレプリカントの製造ルートのお題からは外れた分野でありながら、IT分野がこのルートでの戦闘にかなり役立つ武器であるからではないか、という仮説を気にしたい。彼らはレプリカント製造ルートでは勝てないと悟りITルートに逃げた、あるいはレプリカント製造ルートでIT系レプリカントのルートを選んだ。だが、実は分岐しているように見えているこのルートはあとでどこかしらのレプリカント製造ルートと再合流出来るようになっているのではないか。いや、それだったら例えばアートなども一緒なのでは?とも思ったが、やはり少し違うように思う。先に述べたことであるが、この大きなルートのお題は頭の良さだ。そしてIT系ルートも頭の良さというお題だ。実は分岐していると思ったルートはその境界が曖昧であったのだ。

だがしかし、良く考えたらベンチャーって殆どIT系なのでは?という疑問が残る。では何故自分が最初に例外だと感じたのか?それは生存戦略の適切な見定めにあるのかなと思う。自己を十分に把握し、戦うフィールドとしてのルートを見極め、""そのルートのその分野で""、優秀な""レプリカントとして""勝ち残ることを見定め生きようとしているか、そこにあるのかなと思う。

こうなると、このレプリカント製造論は、十分に一般性のあるものだと思っていたが、僕の個人的な好悪もやはり無視できない(一般性のある論も始まりは個人の思いであるはずだからおかしいことではないのだが)。何故なら、その人か生存戦略を""適切に""見定めているかなんて変容する社会の定義の中で判断しようがないからだ。そこに客観性のみに基づいた絶対的な尺度など存在しないからだ。

 

 

我々は基本的に頭の良さ、というお題で戦わなければならない。義務教育と、実質的に義務教育となっている高校のことを考えたら明らかであろう。何を今更ということであるが、恐らく殆ど全ての人が、頭が良いということに多かれ少なかれ尊さを感じる原因はここにあるのだろう。そしてここでの経験が今後にも大きく影響を及ぼしているように思う。基礎ルート、或いはそこから細分化された分岐ルートで戦うことを決めた人は、そのルートで敗れ優秀なレプリカントにならなかった後もそのことを引きずりる。勝手にルサンチマンを抱えた卑屈で醜い存在になる人(僕のことかな??)、敗れた自分に蓋をして美辞麗句で自分を偽り根源的な幸せや瑣末な成功に自分の確立を見出す人、望みがないと分かっていても戦う人、落ち着いて現状を見定め、自分が勝ち残れるルートや逆転できるルートを積極的に選ぶ人。逆にこのルートで勝ち残り優秀なレプリカントになっている人も今までの経験の影響を受ける。ここまで戦ってきたものの散らつく限界に悩み苦しむ人、一切の疑いなすそれが全てだと考える人、このルートを全クリしたと判断して別ルートをプレイする人…。本当に当たり前だけど、これらに好き嫌いはあっても、普遍的な正誤というのはないのだろう。その時一時的な意味では正誤というのはあるだろうが、誰しもが自分なりの生存戦略生存戦略とは言わずとも自分なりの闘争を通して自分を確立しようとしていることに変わりはないのだ。今風に言うと何者かになろうとしているということに変わりはないのだ。

 

映画『ブレードランナー』では、人間と同じ見た目をしていて、宇宙開発のための労働力として開発された人造人間が、感情の萌芽によって人間社会への反乱を開始する。そして彼らを処刑するブレードランナーの中でも優秀な存在だった主人公は、自らの生き方に疑問を抱きながらも、人間社会の優秀な存在として職務に従事することになる。人造人間はレプリカントと呼ばれている。